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旭川家庭裁判所 昭和51年(家)32号 審判 1976年5月12日

申立人 平岡千枝子(仮名)

相手方 谷村和男(仮名)

事件本人 谷村和政(仮名)

主文

谷村和政の親権者を申立人平岡千枝子に変更する。

理由

(申立ての要旨)

未成年者谷村和政(以下和政という)は、申立人と相手方との間の嫡出子長男であるが、申立人と相手方は、昭和五〇年七月一〇日調停離婚するにあたり、右和政の親権者を父である相手方と定め、爾来相手方において和政を養育していた。ところが相手方は、和政の世話に手をやき、同年一〇月末同人を他に養子に出す話を進めている。そこで申立人は、このまま和政を相手方にまかせておいては将来が不安であり、今後は和政と生活を共にし、同人を監護養育していく決意なので、同人の親権者を母である申立人に変更する審判を求めるため、本件申立てに及んだ。

(当裁判所の判断)

一  関連事件(当庁昭和五〇年(家イ)第四八三号)記録添付の筆頭者平岡千枝子および谷村和男の各戸籍謄本、関連事件および本件における家庭裁判所調査官作成の各調査報告書ならびに本件における申立人の審問の結果によれば、次の事実が認められる。

(イ)  申立人は、昭和三八年一〇月ころ相手方と同棲生活をはじめ(婚姻の届出昭和四三年八月一九日)、同人との間に恵子(昭和四〇年一〇月一八日生)、和政(昭和四六年一月一八日生)の二児をもうけたが、相手方に女性関係があつたことなどがもとになつて昭和五〇年七月一〇日同人と調停離婚し、その際、恵子の親権者を申立人、和政の親権者を相手方と定めた。

(ロ)  ところで和政の親権者を相手方と定めたについては、相手方の希望によるものではなく、申立人が二児を引き取るのは無理であると主張したため、止むなく相手方が親権者となつたいきさつがあり、そのため相手方は、和政を引き取つた当初から同人の養育について不安を抱いていた。また同棲している女性も和政に対する愛情はなく、同女自身旭川市内で居酒屋を経営している関係から毎日午前四時ころまで店で働かざるを得ない状態で和政に対する十分な監護もできないうえ、同女の連れ子(六歳)との関係で相手方との言い争いが絶えなかつた。そこで思い余つた相手方は、旭川市内の“お○○さん”(安本某)を訪ね、和政の処置について相談したところ、養子に出すのであれば心当りがあるといわれ同年一〇月二二日、右安本方で同人から村井清一(三三歳)、喜代子(三二歳)夫婦を紹介され、その席で和政を事実上右村井夫婦の養子にすることの合意ができ、同月三〇日右安本方で和政を村井夫婦に引き渡した。

(ハ)  他方、申立人は、相手方が和政を他に養子にやる意向であることを聞知るや、第三者に養育されるよりも自らの手で育てた方がより本人のために幸福であると考え、同年一〇月三一日当庁に対し親権者変更の調停を申立てた(これにもとづき第一次調停が同年一一月、一二月、昭和五一年一月と合計三回にわたつて開かれた。)。

(ニ)  前記村井清一は、その妻喜代子と結婚して九年になるが、同女が腹膜炎の手術後の経過が思わしくなかつたり、片方の卵巣の摘出手術を受けるなど健康がすぐれなかつたため子供に恵まれなかつた。そこでかねてより適当な子供があれば養子に迎えたいと考えていたところ、前記安本某を通して養子の話があり、前記(ロ)の経過のとおり和政を引き取ることになつた。

和政本人は、村井夫婦に引き取られて後、次第に同夫婦に馴染み、「父さん、母さん」と呼ぶようになり、顔色もよく隣家の同年輩の子供と家の中で楽しそうに遊び、何の屈託もなく一応同夫婦の下で安らぎを得ている(ただし、第一次調停中、申立人が村井夫婦に頼み、和政と一度会つた際、同人が申立人を慕つて泣き出したことがあつた。)。

村井夫婦は、前記の経過で和政を引き取つたことでもあり、これまでも愛情を傾け同人の養育に努力してきたつもりであり、将来とも養育には自信があるので、和政を手離す気持はない旨述べている(これは、第一次調停中、村井清一が利害関係人として参加したときの意向でもあつたが、審判に移行してのちの調査の段階で、審判により申立人が親権者と定められた場合、申立人から和政の引き渡しを求められれば応ぜざるを得ないだろう、と述べている。)

(ホ)  申立人は、離婚後、長女恵子を引き取り、表記住所地のアパートに住い、昼間旭川市内のデパートの店員として勤めていたが、昭和五〇年一二月一九日和政を引き取るための準備として、同人の祖母明(七〇歳、相手方の母)を呼び寄せて同居をはじめた。その後間もなく申立人は、同市内の飲食店に転職(ホステス)し、日給五、〇〇〇円を得ており、他に家賃収入(月額二五、〇〇〇円)もあり、祖母の受給している遺族年金もあわせると、和政を引き取つても経済的に支障はない。しかし、子供の養育という面からは昼間の勤めの方が望ましいので再度デパートに勤めることを考えている。

申立人は、和政の将来につき姉弟一緒に生活させることが一番幸福だと考え、祖母明、姉恵子ともども一日も早く同居のできる日を待ち望んでいる(申立人は、第一次調停中村井清一に対しかなり信頼感を持ち、村井夫婦が和政を引き渡さない場合は、次善の策として、村井夫婦が申立人の近くに住まいし、親姉弟が自由に往き来する環境をつくることを提案したが、その後和政に対する村井夫婦の言葉遺いや健康上の注意につき見聞するに及び、将来とも養育をまかせることに不安を表明している。)。

(ヘ)  相手方が和政を村井夫婦に養子とするつもりで引き渡した経緯は前記(ロ)のとおりであるが、和政を村井夫婦に預けた後である昭和五〇年一一月、同棲していた女性と結婚したものの、同女との間で争いが絶えず、翌一二月には協議離婚し、昭和五一年二月勤め先である○組の事務所の一部屋を借りて、独り暮らしをしている。相手方は、将来和政を引き取つて監護養育する気持を殆んど持つていないし、また養育可能な生活環境にもない。現時点では、村井夫婦のもとで和政が養育されることを望んでいる(第一次調停においては、相手方は、離婚調停の際、申立人が和政をおいていつたので止むなく自分が親権者になつたのに、今になつて同人を引き取りたいというのはおかしい、と反論し、村井夫婦が任意に申立人に子供を引き渡すことには自分は関知しないが、親権者変更には応じないという態度をとり、右調停は昭和五一年一月一四日不成立となつた。審判移行後、調査官による調査の段階で、相手方から、実母である申立人の許で養育された方が事件本人のために幸福であるとの考えに達した旨の意見が述べられたので、第二次調停が同年三月五日、三月一九日と二回にわたつて開かれた。第二次第一回調停期日において、当事者双方は、事件本人の親権者を母である申立人に変更することにつき合意に達したが、相手方において村井夫婦から事件本人を円満に引き渡してもらうための話し合いを持つため期日を続行することになつた。しかし、その後相手方は、再度態度を変え、子供は村井夫婦に育ててもらいたい旨の手紙を当裁判所に提出したのみで、第二回調停期日に出席しなかつたので、結局調停は不成立に終つた経緯がある。)。

二  以上認定の事実関係および本件調停の経緯等を総合すると、事件本人の親権者をその母である申立人に変更し、同人の許で監護養育させるのが、事件本人の福祉に合致するものといわねばならない。(村井夫婦が審判の結果にはしたがわざるを得ないだろうと述べていることは前記のとおりであるが、子供の引き取りについては、同人に与える影響を考慮し、大人である関係者が細心の注意を払うことが望まれる。)

よつて主文のとおり審判する。

(家事裁判官 松本昭彦)

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